過去のイベント
2022年
秋晴れの真っ青な空の下、参加者の皆さんと、二つの館をつなぐ道を学びながら巡りました。
午前の部は、大拙館の水鏡に映る景色を眺めながら、何もしない贅沢なひとときを過ごしました。
時折吹く風にたなびく柳の葉が陽に光り、何とも言えず美しかった。
皆さんと歩きながら、普段は見落としてしまう用水跡など、金沢の隠れた歴史をたどりました。
午後の部は、犀川べりのカフェ「factory zoomer」さんにてコーヒーをいただきながら、
この川べりで子ども時代を過ごした谷口吉郎と鈴木大拙の話を紹介しました。
この界隈からは沢山の文化人や偉人が排出されており、彼らを育んだこの町の文化的背景や時代に想いを馳せました。
日程 | ②10月2日(日)8:00~11:00 ③10月2日(日)13:00~16:00 |
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参加者 | ②12名 ③8名 |
参加費 | ②1,500円 ③1,500円+550円(コーヒー代) |
コース内容② |
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コース内容③ |
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イベントの写真
●寺町通り
前田家の墓所がある野田山の参道として整備されたため「旧野田道」と呼ばれる。通りの両側に大きな寺院が立ち並んでおり、土塀や山門が連なり奥に本堂や鐘楼の屋根が見えるまちなみが特徴。この一帯は「静音の小径」と呼ばれ、土曜日の18時には鐘の音が響き渡る。
●甚兵衛坂
料亭「つば甚」の脇の細い道を進むと現れる犀川河畔へ下る年季の入った階段。「つば甚」の主人・甚兵衛が築いたのが名前の由来とか。金沢市民にもあまり知られていない穴場スポット。
●犀川
犀川の奥に戸室山と医王山が連なる景色は、金沢市民にとって原風景のひとつである。谷口吉郎(1904~1979)も幼いころ、浅瀬で魚をすくったり、河原で手作りの庭を作ったりして遊んでいた。現在は護岸整備されてそうした遊びはできないが、遠くの山々から雄大に流れてくる犀川の風景は、今も昔も変わらない。
●室生犀星文学碑
金沢の三文豪の一人・室生犀星の文学碑。設計者の谷口吉郎は、幼少期に母親が行っていた「流し雛」の形に、犀星の母への想いと犀川の流れに世をはかなむ犀星の詩情を託した。犀川の畔で育った者同士ならではの表現である。
●新竪町
犀川の河原であった「竪河原町」は、いつしか「竪町」となり、やがて「竪町」に続く通りは「新竪町」と呼ばれるようになった。現在、「新竪町」は3丁目しか残っていない。周辺には、中川除町(なかがわよけまち)、水溜町(みずためまち)といった犀川にちなんだ地名が残されている。
●鱗町の地下通路
魚商が多く、鱗がよく見受けられたことに由来する「鱗町」。「勘太郎川」という用水と、犀川から取水された「鞍月用水」が鱗町の交差点で合流する。旧・新竪町小学校の通学路として交差点に設けられた地下通路は、不思議なかたちをしている。空から見ると、まるで、キリル文字の「К(カー)」。勘太郎川の終着点でもある。
●旧・石浦橋
勘太郎川を遡るように、暗渠になった道を進んで行くと、開渠部との境で、ぽつんと取り残された欄干と出会う。加賀本多家に由来する「本多町」から、慶覚寺(きょうかくじ)への参道に架けられた「石浦橋」は、勘太郎川の暗渠化に伴って、橋の形態と欄干のかたわれを失ったようだ。慶覚寺・正面にも、かつて鞍月用水を渡るための橋が架かっていたという。参道を本多町方面へと逆に行くと、本多家家臣・平尾家邸跡地に辿り着く。邸は移築され、金沢湯涌江戸村にて保存展示されている。
●鈴木大拙生誕地
加賀本多家の侍医の家に生まれた鈴木大拙(本名:貞太郎1870-1966)。貞太郎少年が過ごしたこの界隈は、道幅の変更はあっても、ほぼ当時のまま。鈴木大拙館「玄関の庭」に立つクスノキにも親しんでいただろう。「犀川地区住民」であったと語る大拙は、母と一緒に、野田山にある父の墓参りのため、犀川に架かる一文橋を渡った思い出を書き残している。現在、生誕地には記念碑と大拙の書「O Wonderful...」が台座に刻まれた銅像が立っている。