不定期連載

おすすめの秋聲作品を不定期に連載していきます。
(※作品の区切りは当館の任意によります。)


「枇杷のたね」


(前編)
 2023.6.11

 戞々(からから)と二階の板戸を繰る音の劇(はげ)しかったのちは、屋内遽(にわか)に森(しん)として、隣の部屋で揉み療治の肩を叩く音さえ、此(ここ)もとへ洩れて聞える。薄ぼんやりした籠ランプの下(もと)では大きいズックの鞄を啓(あ)けて、楽しそうに中から何か田舎土産の包みの数々を、出したり入れたりしているのは、二十六七の書生あがりらしい紳士である。

 五月雨の頃で、セルの単衣(ひとえ)に白縮緬の帯を締めて、目の覚めるくらい、太い絣の大島紬の袷羽織を被(き)ているが、湯あがりの髪は直(ぴった)り、扁平な頭に撫で着けられて、左の方で綺麗に分かっているのが、縮れっ毛であるから、額の中央で渦捲いて、てらてら光沢(つや)を持っている。色は真っ白いのが較(やや)赧味(あかみ)を帯びて、長い揉み揚げに続いて、頬髯の剃られた迹が青々としている。鼻は低い方で、唇が厚いが、眉毛は濃く綺麗で、優しい目容(めつき)である。

 勧工場ものらしい花簪(はなかんざし)の箱を取り出して、中を啓けているところへ、戸迷(とまど)いをした乙鳥(つばめ)のよう、ぱたぱた駈けて来たと思うと、障子を啓けるや否、あわただしく駆け込んだのは十四五の娘ともつかず、女中ともつかぬ女の子で、入りは入ったが極(きまり)悪そうに男の顔を見て、
「あら、御免なさいまし。」と息の切れそうな声で呟いた。

 散らし髪の頭の形(なり)の好(い)い、色の白い、目の大きい、頬から口の辺りの豊(ゆった)りとした顔で、下唇の下が剚(えぐ)ったように窪んでいる。子供子供したうちに何処か締りのある小作りの躯(がら)で、顔が比較的大きいのに、肩が可恐(おそろ)しく削げていて、胴の細いのに綯えたメレンスの帯を締めている。

 突っ立って外の様子を候(うかが)う気勢(けはい)であったが、何事もないので、又出ようとすると、帳場の方で、甲張(かんばし)った女の声で「清や、清や。」と二声呼んだので、急に身を縮めて、濡れた街灯のかかった衣桁の裏へ半分隠れて了(しま)った。

「清ちゃん!」と呟くように言って、手を休めながら熟(じっ)と此方(こっち)を戍(まも)っているので、お清は袖を将(と)って顔を半分蔽った。
「奈何(どう)したの。」と優しい調子で聞かれると、目を丸くして、頭(かぶり)を掉(ふ)った。
「何為(なぜ)那麽(そんな)ところへ潜(しゃが)むのだい。」と見せた顔に簪の箱を手に持っている。
「いいえね、竹どんと喧嘩をしましたの。」と頥(あご)を突き出して、馴れ馴れしく言った。
「喧嘩を為(し)ては可(い)けないね。清ちゃんが、意地が悪そうな顔をしているから、此方が悪いのだろう。」
「私?」と目をぱちくりさせて、つんと横を向いた。
「屹度(きっと)そうなのだろう。」
「そうじゃないわ。」と心細そうに言って、そろそろ外套の蔭から出ようとすると、又声が為(す)る。
「あれ、また呼んでるわ。もちっと恁(こ)うやっていようかしら……。」と怵々(おずおず)此方を向いた。

 隣の部屋で、無法に大きい叭(あくび)をしたので、お清は吃驚(びっくり)して、其方(そっち)を向く途端、すうと障子が啓いて、
「え、お疲れ様、此方は按摩は如何(いかが)さまで……。」と皴嗄(しわか)れた声で言ったので、お清は又私(そっ)と振りむくと、口を顰(ゆが)めて、盲(めくら)の目を物凄く屢瞬(しばたた)きつつ、見るともなく、じろりと白眼(しろめ)で見られたので、気味悪そうに顔を背向けていた。

 按摩の去ったあとで、
「お前は一体、此の宅(うち)の何なのだ。」
「私(あたし)? 何なんですか。」
「女中か。」
「いいえ。」
「お嬢さんなのか。」
「いいえ。」
「解らないね。それじゃ、今呼んだのは阿母(おっかあ)さんでもない。」

 清ちゃんは暫(しばら)く考えていたが、
「阿母さんは阿母さんなんですけれど、少し訳があるの。」と慧(さか)しい目を俛(うつむ)いて溜息を吐(つ)いた。
「はてね、訳がある?、其の訳を聞こうじゃないか。」

 揶揄(からか)うのではないかと、清ちゃんは身を反らして急に澄まし込んだ。
「それじゃ何だね、本当の阿母さんじゃないのだね。そりゃ気の毒だ。そして清ちゃんを呵(いじ)めるという訳なのかい。」
「は、随分辛(つろ)うござんすの。」とほろりとした。
「本当の阿母さんは居ないのか。」
「いますの。」
「何処に?」
「東京。」
「東京は何処?」
「芝だっていいますわ。」
「それじゃ其処へ行ったら可いじゃないか。」
「ですけれども……。」と清ちゃんは燥々(いらいら)しく体を揺すった。
「那様(そんな)とこにいないで、此(ここ)へお出(いで)よ。阿母さんが東京なら東京が恋しいだろう。東京のお土産をあげようか。」と鞄の中を掻き廻した。
「あ好(い)いものがあるよ。薬玉(くすだま)を一つあげよう、島田に結って、挿してごらん、立派なものさ。」と取りあげて衒(ひけら)かした。

 清ちゃんは衝(つっ)と衣桁の後ろを出たが、気を変えて中途で立ち停った。
「本当におくんなさるの?」
「誰が嘘を言うもんか。さあお出よ。」
 惶々(おずおず)寄って、行儀よく坐って、而(そう)して薬玉を受け取ったが、不安心らしく膝のうえで眺めている。
「だけれど、叱られると可けないわ。」と低声(こごえ)に呟いた。
「誰に?」
「阿母さんに。」
「叱るもんか。那様に悸々(びくびく)するところを見ると、大分邪慳な阿母さんと見えるね。阿父(おとっ)さんは又それを何とも言わないのかい。」
「私(あたし)の阿父さんは病身なの。始中終(しょっちゅう)蓐(とこ)にばかり就いてるんですから、為方(しかた)がありませんの。それで阿母さんは気が強くって、御酒(おさけ)が所好(すき)で、思い遣りがないんですから、随分酷いことをなさるの。」
「其(それ)は絶(したた)かものだ。一体甚麽(どんな)事を為(す)るえ。」
「まあ一つ気に入らないとなると、煙管(きせる)で打(ぶ)ったり何かしますわ。ですけれど私(あたし)が病気をすると、随分可愛がってくれますわ。其の時は平気で、さんざ我儘を言いたり、駄々を捏(こ)ねたりしますの。東京の阿母さんが一度游(あそ)びに来いなんて然(そ)う言って寄越すんですけれど、奈何(どう)しても遣っちゃくれませんの。阿母さんは去年の夏でしたっけ、私が病気のとき、お見舞にお出(いで)なすって……それはね好い女よ。……好いとこのお妾さんなんですって。」と言い去って、急に口を噤んだ。
「そんな阿母さんがあるんなら、何も辛い念(おもい)をして、此(ここ)にいることはないじゃないか。」
「ですけれど、這麽(こんな)に大きくしたものを、今連れて行かれちゃ困るって、阿母さんが然う言うんですもの。東京の阿母さんが然う言いましたわ、阿父さんや、此(ここ)の阿母さんには散々阿母さんが世話になったんだから、辛棒をしろって。」
「へえ、甚麽(どんな)訳で。」
「何ですか知りませんけれど、阿母さんは元此(ここ)に居たんだって言いますわ。」
「じゃ此に奉公していたのだろう。」
「那様(そんな)事は有りやしませんわ。」と薬玉の綟(ふさ)を弄っていたが、何の気なし頭へ挿そうとして、「おや、可けないことね。」と低(うつむ)いたので、下がった散らし髪をさっと頭(かしら)を振りあげざま掻きあげた。
「明日お梅どんに結ってもらおうかしら。阿母さんが今日結ってやるって、髪を解きかけましたの。私(あたし)が体を動かしたり、頭へ手をあげたりするって、癇癪を起して髪を引っ摑んで、其処等(そこら)中私(あたし)を振り廻しましたの。まあ髪が皆(みんな)抜けて了(しま)やしないかと思うくらいでしたわ。」と又急に声を潜めて、滅入って了った。
「可恐(おそろ)しい手荒いことをする奴もあったものだ。」
「よく、打(ぶ)たれたり何かしますわ。」
「清ちゃん清ちゃん。」と今度は優しい同じ声で連(しきり)に呼ぶのだ、段々段梯子(だんはしご)からあがって来て、到頭(とうとう)此(ここ)へやって来そう。

 清ちゃんは、目を丸くして、おどおどして、薬玉を前へ投(ほう)り出すかと思うと、起ちかけてまごまごしている。
「あら可けない。」と低声(こごえ)に呟いて、男の顔を見ると、何か底気味わるく笑っているので、いよいよまごついた。
「可いじゃないか。」

 遽(にわか)に廊下の跫音(あしおと)が遏(や)むと、厳(がっし)りした寂(さび)のする声で、
「清ちゃんや。」と呼んだ。と思うと、奈何(どう)悟ったものか、すうと障子を啓けて顔を出した。四十ばかりの顔のてらてらした丸髷のつやつやしい、小肥りに肥った、大きい口元に冷笑の気味を有った女である。

「御免なさいまし、お介(かま)い申しませんで。……おや、清ちゃん何をしてお出(いで)だよ。」と睨(ね)められたので、
「今行きますわ。」と清ちゃんは顔に笑みを作った。
「曩(さっき)から麽那(あんな)に呼んでるのが、聞えないことはなかろう。」
「ですから阿母さん、私(あたし)今行きますよ。」語尾が鋭かったので母親は惘(あき)れ顔に黙っていたが、
「貴下(あなた)、明日は蒸気でございますか。」
「いやいや、東京から来たところで、今度一週間ばかり経つと帰るのです。えいと、去年の夏も些(ちょっ)とお世話になったことがありますが、其の時分は這麽(こんな)子はいませんでしたね。私は酷く気に入っ了(ちま)ったから、今土産もののお裾配(すそわけ)をしているところです。誠に気さくな好(い)い子。」
「いえ、もうから稚児(ねんねえ)で可けません。何をお貰いだい。それはまあ、お礼を申しあげて早く……お邪魔になると可けないから。……へえ、去年の夏、さようでございましたか。」と冷ややかに言い言い婆(ばば)は出て行った。




(後編) 
 2023.6.12

 後で清ちゃんは笑窪の口元に、にやりと寂しく笑って肩を竦めたが、遽に又極(きまり)悪そうに俛いて了った。為草(しぐさ)が何となく哀れっぽいので、男は熟(じっ)と視ていると突如(だしぬけ)に、

「貴下(あなた)、東京?」
「ああ、東京。」
「東京は芝。」と剽軽(ひょうきん)な調子なので、
「あら、まあ、嘘!」
「よく疑(うたぐ)る人だ。真箇(まったく)芝なんだから、阿母さんの処へ言伝があるなら頼まれてあげよう。」
「そう――。」と力の籠もった調子で。

「何か言伝があるだろう。」
 清ちゃんは暫く考えていたが、「そりゃ有るわ。だけれど人に言われない事ばかんなんですもの。」
「じゃ手紙に書いたら可いじゃないか。」
「それよりか、呈(あ)げたいものがありますの。」
「それを持って行ってあげよう。何だい。」
「阿母さんは枇杷が所好(すき)だから、枇杷があげたいんですけれど、持って行ってもらうのは大変ですもの。どっさりですから。」
「そいつは少し弱ったね。」
「ですから休(よ)しましょう。」
「それじゃ奈何(どう)だね、清ちゃんが一緒に来たら。」
「…………。」
「是非一緒に行(ゆ)こうじゃないか。」
「行きたいにゃ行きたいんですけれど、迚(とて)も行(や)ってくれやしませんもの。」と目を輝かしく屢叩(しばたた)いた。
「やってくれないたって、行って了えば為方(しかた)がないじゃないか。阿母さんに逢いに行くのだから、遣らんのが無理だ。脱けて行ったって誰が何というものか。」

 清ちゃんは熱心に聞いていたが、 「私(あたし)どうかして行こうかしら。」と独り語(ご)って、「毎(いつ)でも行こう行こうと、然う思っちゃ可怖(こわ)いもんですから休(よ)して了うの。彼処(あすこ)の浜へ出ちゃ蒸気の出るのを見ていますと、何だかもう行きたくって行きたくって、船が迥(ずっ)と小さくなって見えなくなるまで、熟と見ていますの。那(あ)の船は霊岸島へ着くんですとね。そう?」
「そうさ。」
「其処から芝まで余程(よっぽど)あって?」
「何有(なあに)訳はないさ。」
「私(あたし)行きたいわ。」
「行きたいだろう。」
「ああ。」

 清ちゃんは何時(いつ)か茫然(ぼんやり)していた。

「何を考え込んでいるのだい。」と言われたので、清ちゃんははっとして、顔の道具が急に引き締まって来る。
「是非行こうよ。」

 清ちゃんは落ち着いていられないので、連(しきり)に身動きをしていたが、起って窓を啓けると、雨は丁度小遏(こや)みのまを、薄赤い十三日ばかりの月が、雲の彼方(あなた)から薄(うっ)すり光を落しているが、波の音が静かに弛(ゆる)く、此許(ここもと)へ揺らぎ来るのであった。

「それは東京は面白いよ。そして其の枇杷のお土産は是非清ちゃんが背負って行くのさ。」
「あら。」とくるりと振り向いたが、此方(こなた)は精々(せっせ)と鞄の中を整頓して、丁度閉じて了おうとするころで、瓶詰めのバナナケーキを取り出(いだ)して、洋刀(ないふ)で口をこじあけながら中から摘まみ出した。

「お美(いし)いものがあるからお出(いで)なさい。」
「それは何? 食べるもの?」と受け取りながら坐った。
「そうさ、お食(あが)り。」

 清ちゃんは看るまに、むしゃむしゃと食べて了った。

「お美いお菓子だことね。」
「馬鹿に早いじゃないか。」と言われて、又例の気味の悪い笑い方をした。
「お美いか、も一つあげよう。」
「も沢山(たくさん)。」と顔を赧(あか)くして堅くなった。

「清ちゃんは幾歳(いくつ)だい。」
「何為(なぜ)? 十六。」
「十六? 十六にしちゃ軀(からだ)が小さいね。十六!」と熟と顔を矒(みつ)められらたので、
「何為?」と怪訝な顔色(かおつき)をした。
「何ね、清ちゃんのようなのも罪がなくて可いてことさ。」

 清ちゃんは意味なしに笑っていたが、男はケーキを摘まんで、茶を啜り揶揄(からか)い半分一遍(ひとあた)り其の身の上ばなしを聴き取った。

「何(どう)せ、婆(ばばあ)の喰いものになるのだね。」と呟くように言って、「そろそろ九時だ。」と伸びあがって、大叭(おおあくび)をしたので、清ちゃんは驚いて顔を見あげたが、
「何(なあに)?」と意味は解(げ)せぬながらも、気味悪そうに目を睜(みは)っていた。
「もうお寝(よ)るの? 窓を締めときましょうね。」と起って、
「おお好(い)い月!」と又暫く外面(そとも)を眺めていたが、何時(いつ)か後ろに立ったのは男で、私(そっ)と肩へ手を廻して、引き寄せて上から覗くと、赤い月は丁度雲が剥がれたので、ぱっと其の額を照らしている。
「どうだ、好い月だ。」と、振り仰ぐ娘の頬へ、横から直(ぴった)り顋(あご)が喰っ着いたので、
「何(なん)するの?」と鋭く言って、急に身を横へ引いて可惜(こわ)い目で睨(ね)めつけたが、想い出したように、ばたばたと部屋を駆け出して了った。

 明日目の覚めたのは彼此(かれこれ)七時の頃で、希(めずら)しく雨が霽(は)れているから、繰り啓けた縁から漸(ようや)く暑い日は赫々(あかあか)照っていた。頭を擡(もた)げると、枕頭(まくらもと)に丁(ちゃん)と坐っているのは清ちゃんで、手捲きの莨(たばこ)を精々(せっせ)と捲いていたが、顔を見合わすと嫣然一笑して捲いたのを鼻頭(はなさき)へ突き出した。朝早いうち身修(みじま)いを為(し)たものと見えて、髪は綺麗に桃割れに結われて、顔に薄化粧をしている。目の涼しいのが一入(ひとしお)冴え冴えして、小豆棒縞の肉色のセルの単衣に、友禅縮緬と繻子の腹合せさえ何処か落ち着いて見えた。

「朝っぱらから大層お靘装(めかし)だね。」と目を睜ると、
「今日はお稽古に行きますの。」
「何のお稽古?」

 莨を吐(ふ)かし吐かし只(と)看ると、昨夜(ゆうべ)の薬玉が麗々しく鬢(びん)の上に揺らいでいる。

「お茶。」
「それは可いね。そして東京行きは奈何(どう)決まって?」
「矢っ張り行きますの。」
「行くことにね。」
「私は、あれから其の事ばっかり思っていて、何うしても寝つかれなかったの。」
「けれども御父さんが病気じゃ困りはしないかい。」
「いいえ、些(ちっと)も介(かま)やしませんわ。」
「病人を放抛(うっちゃ)って行くのは不人情じゃないか。」
「でも何ですもの。御父さんの病気はぶらぶら病(やまい)で、何時(いつ)まで経っても同じなんですから、待っていた日にゃ行かれは為(し)ませんわ。」
「じゃまあ、行くことにしておくさ。」
「本当に連れて行っておくんなさるの。」
「あ。」と勢(せい)のない声で言って、起きあがると、
「これからお起ちなさるの。」と引き留め顔に顔を瞶(みつ)めていた。
「そろそろ支度をするから、御膳を然う言っておくれ。」
「は。私(あたし)も是(これ)から行きますの。」と目を据えて考えていたが、想い出したように、
「今度は何時(いつ)またお出(いで)なさるの。」
「そうさ、何時になるかな。まあ近いうち。」
「待っていますわ。屹度(きっと)ですよ。」
「宜しい。」

 清ちゃんは始めて安心したが、いそいそしく部屋を出た。 

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 五月もお終(しま)いになったが、紳士の姿はまだ北条の海月楼と呼ぶ少女(おとめ)の家へは見えなかった。


 六月の中間(なかば)、中庭の赤躑躅(あかつつじ)も大方すがれて、楓の緑はこんもりと、厠の手洗い鉢の四下(あたり)、微闇(ほのぐら)くなった時分、町の裏伝い、車を駆って浜辺へ出たのは件の紳士に丸髷の婦人で。一月見ぬまに鼻の下には較(やや)赧味(あかみ)がかった髯が綺麗に延びて、パナマを深々と冠(かぶ)って、手提げ鞄げている。女は新婦らしく、何処か初々しいうち、離れじと海老色の深張傘(ふかばり)を傾けて、裾を蹇(かか)げながら潮風に緋の襦袢の裾の翻(かえ)るさえ鮮やかに看られる。

 只(と)看ると、梅雨の未だ乾(ひ)ぬ砂は、一面鳶色(とびいろ)に閃々(きらきら)と日を受けて、紺青を熔(と)かしたような海は、静かに白波(はくは)を揚げている。

 夥(おびただ)しく木を積んだ運送問屋の前で立ち停って、件の紳士は切符を買いに内へ入ると、婦人の傘で顔を隠して、材木の蔭へ身を避けていた。丁度側にいたのは、十五ばかりの愛くるしい娘の子で、髪は散散に乱れて、身に中形の浴衣を着けて、メレンスの帯を締めている。顔は目の縁から頬へかけて、ぼうっと日に焦(や)けているが、何処か寂しい口元に枇杷の皮が一片(へき)ばかりついている。手に持っているのは、露も滴りそうな真っ黄の枇杷の一束で、葉の間から、抓(むし)り抓り汁を吸っては種を棄ているのであったが紳士の姿を見ると、急に気が引っ立ったよう、衝(つい)と材木から出て、暫く内を覗いているかと思うと、又立ち戻って婦人の横に突っ立って、熟と其の姿を瞶めていた。

 で、看々(みるみる)顔が赧くなるかと思うと、心細そう首をうな垂れて、而(そ)して衝(つい)と材木の蔭へ隠れて了った。

 日の光と水煙ともつかぬ濛靄(もや)とが立ち交じって、一面ぼんやりした海の面(つら)を、汽笛の声気立(けたたま)しく、行(や)って来たのは館山からの二番の蒸気である。

 紳士は遽に問屋を出て、急々(せかせか)と汀(なぎさ)の方へ歩(あし)を迅(はや)めた。蹤(つ)いて行く婦人の傘へ中(あた)ったのは、ばらばらと散る枇杷の種で、愕(おどろ)いて振り返ると、

「嘘ッ吐(つ)き!!」
と言い様(さま)、清ちゃんは一散に彼方(あなた)の砂山目がけて逃げ出した。



(完)


初出誌の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
 底本:明治33年7月15日(「新小説」第5年第9巻)
◎文中には、今日から見れば不適切と受け取られる可能性のある表現があるが、歴史的資料として
 正確に伝える必要があるとの判断に基づき、底本のままとした。







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